
先日、以前の私のブログで書かせていただいた、私が初めてアルバイトした際に本職の方に助けてもらった話をもう一度読みたい、とのメールが届きまして、今回はその話となります。
もうかれこれ7年も前に書いたものであり、少し長めの文章となっておりますが、宜しかったらお暇な時にでもお読みいただけると幸いです。
では、時を30年以上遡ったバブル期の頃のお話をご覧くださいませ。

今ではインバウンド客が押し寄せる有名な観光地となった東京の浅草という地域がございますが、80年代後半から90年代前半にかけての浅草は、人も疎らで廃れた観光地の側面と、昔ながらの下町風情と、スラムのような環境が同居した不思議な地域でして、そこには怪しげな方々が大勢いらっしゃいました。
私が高校生になって初めての夏休みに入り、生まれて初めてアルバイトをしようと考えた時、どうせなら非日常的な地域で働いてみようと、浅草で働ける場所を探しました。
当時はバブル絶好調の時期で人手不足が慢性化しており、電話帳並みの分厚さのアルバイト情報誌が毎日発売され、それは多くの求人が掃いて捨てるほどありましたが、不思議と浅草での求人は少なく、私が高校生であることも相まって、ネコ印の運送屋さんの営業所の内勤くらいしか求人がありませんでした。
その時のネコ運送は、正直、時給が他に比べても安く、しかもアルバイトなのに2か月間の契約制で、今となってはもう思い出せないのですが社会保険事務所に行ってなにかしらの書類を貰って提出しなければいけないとのルールがあったりして、魅力的なバイトとはとても言い難かったものの、怪しげな地域に身を置いて働けることを最優先し、運送屋さんのアルバイトが始まりました。

業務内容は、営業所に持ち込まれる宅配荷物の受付と営業トラックへの荷物の積み込みと荷下ろし、仕分け業務、さらに近隣に歩いていける範囲のお宅への配達が少々というものでした。
勤務初日、まずは営業所の皆さんに挨拶をしてまわると、そこで働いている全ての人から『すぐに辞めないで頑張れよ』と口々に言われました。
なにか嫌な予感がしてドライバーさんに尋ねてみると、この営業所は、内勤のアルバイトやパートさんが入っても高確率で初日か二日目ですぐに辞めてしまうそうで、慢性的な人手不足が続いている中で私は久しぶりに入ってきたアルバイトだと言われました。
なぜ、アルバイトとパートの定着率が極端に低いのか?その理由は働き始めて数時間後には知ることとなりました。

浅草といっても中心地から少し外れているこの営業所は、見た目には何の変哲もない運送屋さんの営業所であり、荷物を持ち込むお客さんの荷受けをするのが主な業務なのですが、来店される方々の客層が若干異なりまして、この営業所に訪れるお客さんの半数以上が反社会勢力であろう方々なのです。
真夏の暑い時期でしたから、鮮やかなボディーペイントを施された上半身をさらけ出したままメルセデスで乗り付ける、なんてことが1日に複数回起こり、荷物を渡される時や送り状を記入している手を何気なく見ると、指が欠損されている方は一人や二人ではなく、なかなかの緊張感と無言の圧力を肌で感じる職場です。
また、荷受けの際には荷物の中身を必ず確認しなければいけないルールがあるのですが、中身を尋ねると、『聞かない方が身のためだぞ、兄ちゃん』という重い一言で済まされるのはしょっちゅうでして、包みの上からの感触でずっしりとした金属製品であることが分かる荷物の時は『花火関係』と言われ、「火薬類は発送できません」と私が恐る恐る返答すると、『火薬の方はまだ入ってないから安全だぞ』と言われる事もありました。
真実か否かは知る由もありませんが、『兄ちゃん、この荷物がなくなったら大変だぞ、凄い末端価格だからな』と聞きもしないのにあちらから言ってこられ、このまま荷受けするより警察に届けた方がいいのでは?と思える荷物が毎日の様に持ち込まれました。

また、荷物の発送だけでなく、そのような方々は配達ドライバーの自宅や事務所への来訪を避けられるため、届けられる荷物を営業所止めにされて引き取りに来られることがほとんどなのですが、もしも荷物に何か問題があったりすると、大音量の軍歌が鳴り響く黒いワゴン車が営業所に横付けされる事態になったことが過去にはあったそうです。
ですので、そのような方々宛の荷物には秘密の目印を営業所内で貼り付け、営業所の誰もが粗相があってはならない荷物だと認識し、加えて、受け渡しの際にそれなりの応対をすることが義務付けられ、まだ高校生で新人アルバイトである私にもその対応を強く求められましたから、普通の運送屋さんの内勤業務とは一風変わっているのは間違いなく、その点が定着率の低さに繋がっている気がしました。
ただ、そのような方々は高校生くらいの若造が珍しいのか、私に対しては結構優しくしてもらい、気軽に話しかけてくれたり、なにか差し入れを持って来てくれることがとても多く、和気あいあいとした雰囲気がありました。
さらにもう一歩踏み込んでくる方もいらっしゃり、『うちの事務所で寝泊まりすれば楽しい人生だぞ』とか『困ったらこの名刺の電話番号に掛けてこい、すべて面倒見てやるから』と返答に窮する事を何人にも言われましたし、宅配料金の支払いの際に『釣りは要らん』と必ず1万円を置いていく、見た目にも雰囲気的にも幹部クラスに間違いない方もよくいらっしゃいました。

そんな職場で朝から晩までアルバイトに勤しんでおりましたが、もうそろそろ仕事にも慣れ始めた頃にこの営業所の所長から呼び出され、『この頃、売上金が足りないことがあるんだが、なにか知っているか?』と唐突に聞かれました。
持ち込まれる荷物の配送代金は、小さい会社の経理さんが机に隠し持っているようなボロい手提げ金庫で管理していたのですが、所長が売り上げ計算をすると不足が発生しているそうで、私が売上金を盗んでいるのではないかと疑っているようです。
『おつりの受け渡しで多少の間違いが仮にあったとしても盗みはしません』と私は答え、現に『釣りは要らん』と言って置いて行かれる1万円のおつりも所長に手渡しておりました。
そんなことがあった数日後、今度は『売上金が1万円足りない、お前が盗ったんだろ』と所長から言われなき疑いを掛けられました。
この営業所で配送代金を受け取る業務は私しか従事しておらず、私が休憩や休みの時は所長がその業務を行っておりましたから、『お前が盗っていないなら俺がやったことになるんだぞ』と怒鳴ってきて『おまえ、本当の事を言わないと警察沙汰だぞ』と迫ってきました。
私が盗っていないのは紛れもない事実でしたので、怒りをこらえつつ『そこまでおっしゃるなら監視カメラでも設置して四六時中見張っていてください。そして、盗んだ証拠が出てきたら警察でも裁判でも何でも行ってください。言われなき疑いをかけられるのは非常に迷惑です』と、努めて冷静に私が反論すると、『そこまでする必要ない』と急に覚めたような口ぶりになり、『もう二度と手癖の悪い事はするなよ』と捨て台詞を吐いて2階の事務所へ戻っていきました。
あらぬ疑いを突然掛けられ、私は珍しく怒りに満ち溢れておりましたが、バカの言う事は放っておいて嫌な事は早く忘れようと気持ちを整理している時、『釣りは要らん』の方が営業所に来られ、私を見るなり『兄ちゃん、今日はなんだかやけにイライラしてるな』と言われました。
私は世間話のような感じで『さっき、所長に泥棒扱いされて酷い目に遭いました。いつも頂いている1万円のおつりだって所長に手渡ししている人間が、このボロ金庫から1万円を盗ると思いますか?』と何気なく愚痴をこぼしました。

すると、その方の顔色がみるみる変わり、突然、所長のいる営業所の2階へ階段を駆けて行き、所長を見つけるやいなや、胸倉を掴んだと思ったらすぐさま床に叩きつけ、『お前だろ、金を盗ってるのは。おい、コラ』と、怒鳴るわけでもなく、地の底から湧き出てくるような低音ボイスで、床の上にあおむけにされて怯える所長を問い詰めます。
その時の手際の良さったら感動するほど無駄な動きが一切無く、合気道のように胸倉を掴んだ瞬間に所長が綺麗な放物線を描いて床に叩きつけられる様は見事でしたし、なによりも本職の方の凄みを生まれて初めて目撃し、目つきがこの世のものとは思えない鋭さで、傍から見ている私自身が恐怖を感じるほどでした。
何の前触れもなく突然床に叩きつけられ、恐ろしい形相をした本職の方に首元を締めあげられた所長は、大の大人なのにおんおん泣きながら『私が盗りました』と白状し、なぜか本職の方に何度も土下座をしていました。
さらに本職の方は、所長に対して『若者に盗みを擦り付けるなんて舐めた真似したらどこまでも追い込むぞ』と、Vシネマの中でしか聞いた事のないセリフを低音ボイスで言い放った後、私の方を急に振り返って『兄ちゃんの疑いが晴れて良かったな』と笑顔で言われましたが、鋭い眼光はそのままでしたので、その笑顔がまた一段と恐ろしさを醸し出しておりました。

事が終わり、泣き続ける所長を横目に、おつりは要らない本職の方になぜ所長が犯人だと分かったのかを尋ねると、『兄ちゃんが来る前はあいつに1万円を渡していたが、あいつは自分のポケットに必ず金を入れていた。それとあいつは小銭を盗む顔をしているからな』と、分かったような分からないような返答をしていただき、『今日は楽しかったな』と言った後、私の作業着の胸のポケットに1万円札をクシャっとねじ込んで帰っていきました。
この方が本当に本職だったのかどうかは定かではありませんし、どのような立場の方かも存じ上げませんが、どんな職種の方であれ、下町の粋な方だったのは間違いなく、粗暴な行為は褒められませんが、やたらと格好が良かった事だけを今でも鮮明に覚えております。
私の疑いは晴れた一方で、自供した犯人である所長は本当に追い込まれると思ってしまったらしく、その日を最後に営業所へ顔を出す事はなく失踪してしまい、その影響から、私は夏休み期間中、一日の休みもなくずっと勤務をする事になりましたとさ、めでたくなし、めでたくなし。